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からあげはあたため直さなくていいよ(ふにゃふにゃになるから)

アルツハイマー型認知症の祖母の介護を終えて、一人暮らしをはじめた孫の日記

『ポースケ』/探しているものはいつも本のなかから見つかる


あるとき、不意に何も書けなくなった。というのは大袈裟だけれど、自分の感情を言葉というかたちに変換できなくなった。というのもまた大袈裟で、できてはいるけれど、納得できなくなってしまった。何を書いても、間違っている気がして。段々と、書かなくなった。萬年筆でノートに書いていた短い日記も。ツイートも画像が多めになった。趣味の小説は全く書けなかった。それとは別に、介護のことや自分の体調、精神状態などが限界に近づいてしまった。何をする気力もなくなった。「お風呂に入らなくちゃ」と思うのに、全く動けなくて、気がついたら2時間が過ぎている、なんてことが増えた。








そういう日々の中で、「読書」だけは今までと同じように続けていた。ほとんど縋るように、読み続けていた。何かを(何かって、なんだ?)探すみたいに。時々、良いとか悪いとかというのとは全く別の次元で、突き動かされる、とでも言えばいいのか、とにかくそういう読書体験を得られる本がある。たぶんそういう本を探していたのだと思う。「そういう本」は簡単に出会えるものでもないことを知っている。だから、とにかく読むしかない。顔も名前も知らない本を探し続ける。








津村記久子『ポースケ』(中公文庫)は発売されてすぐ購入した。買いたくて、というのではなく、たまたま立ち寄った書店でたまたま新刊棚にあるのを買っただけだった。津村記久子は結構好きで、何冊か読んでいる。『ポースケ』は『ポトスライムの舟』に出てくる登場人物たちの物語だという。読みたいなという気持ちと、ポトスライムの舟ぜんぜん覚えてないけど大丈夫か!? なんかめんどうだなあ……という気持ちが半々で、段々めんどうだなあがまさって、買ってからずっと押入れで寝かせていた。いよいよ読もうと思った理由も単純で、申し訳ないものだ。積読を消化し続けて、もう読むものがなかったから。








途中まで、ああこの人見覚えがあるなあとか、この人(登場人物のひとり)の語り口結構すきだなあとか、そんな漠然とした感覚しかなかった。「コップと意志力」という話を読み始めたときには、うーんこの主人公あまり好きじゃない感じだなあと思っていた。けれども途中から、突然、自分の言いたいことがどんどんと湧き上がってくるようになった。主人公の感情にシンクロするように、わたしの感情が言葉として立ち上がっていく。自分の中でぐちゃぐちゃとした不定形だった言葉たちが、きれいに隊列を組んだ渡り鳥のように整列していく。








久しぶりに、突き動かされるような読書体験だったと思う。でも、それをうまく伝えることが出来ないのがもどかしい。本の中にわたしが探していたものがあったわけではない。読書という行為を通して、わたしは自分の感情や、感情を言葉にしたいという気持ちを取り戻したような気がする。だから、主人公に深く共感したとか、そういうのはあまりない。けれどもひとつのいきもののような「物語」がわたしの背中をばしんと叩いてくれたような、そんな感覚がある。読書は作者との対話だという人もある。時々こういう体験があるから、本を読むのはやめられない。もちろん、本を読む理由はそれだけじゃない。一番の理由はいつだって「続きが気になるから」だ。楽しいから、わたしは本を読むのだ。








仕事は相変わらず忙しい。半年以上仕事を教えてきた人が辞めてしまうこと。残業をしても終わらない仕事の山。介護との兼ね合い。祖母との関係。いろんな問題がいつだって山積みになっている。でも、昨日よりは少し元気になった気がする。この本をもっと早く読んでいたら、と思うことはない。この本を読むタイミングは今しかなかった。わたしもこの本も、今を待っていた。そう思いたい。
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