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からあげはあたため直さなくていいよ(ふにゃふにゃになるから)

アルツハイマー型認知症の祖母の介護を終えて、一人暮らしをはじめた孫の日記

踊り場からあなたへ「よいお年を」

海の方から強い風が吹き付ける。叩きつけるように雪が降る。響き渡る風の音を耳にするたびに、自分の生まれ育った街に「帰ってきている」ことを実感する。帰ってきてからもう何年も経つのに、いまだにわたしは自分の居場所がよくわからずにいる。ブーツで踏み締めると、足元の氷が小気味良い音を立てて割れた。


祖母が入院して半年以上が過ぎた。相変わらず、祖母の家で二匹のねこと亀とともに暮らしている。

年末ということもあり、少しずつ家のものを整理したり、掃除をしたりする。ずいぶん前に亡くなった祖父の写真。祖父はとにかく色々なところにわたしを連れて行ってくれた。学校に通えなくなったときも、祖父母はわたしに居場所を与えてくれた。最近、わたしの知らない祖父の話を聞く。いい話ばかりではない。わたしにとっての「祖父」は別の人にとっての父や夫や取引先や友人であって、かれらから見る「祖父」はわたしのそれとは全然違う人物であったりする。そういう話を聞くと不思議な気分になる。色々なことを思い出したり、考えたりしながら家の中を片付けていく。

いま、この状態は階段の踊り場みたいだなと思う。どちらでもない場所、なにかの途中。祖母が帰ってくる日を待ち続けている。祖母が帰ってきたら、彼女の介護をしながらの生活がまたはじまる。祖母が帰ってこないのであれば、わたしは「自分の部屋」を見つけて、ここを出ていく。でもいまは、どちらでもない。待機がつづく。



からだの調子がとても悪く、それに引き摺られるように精神的な面でも不調が続いている。日々の生活が重苦しくて、これがあとしばらく続くなんて考えたくもない。じゃあ死にたいのかと言われるとそういうわけでもないのだけれど、ここはどんづまりだなあといつも思う。介護を主たる介護者として担っていたときには「理由」があったから毎日頑張れていた部分があって、それを完全に失ったとき、わたしはどうしたらいいのだろう。そんなことはまだ考えなくていいのかもしれないけれど。周回遅れどころではない人生を生きていて、言葉にするならたぶん「虚しい」のだ。



そういうどうしようもない泥のような話はさておき。あちこちに「謹賀新年」の張り紙があり、門松が行儀良く鎮座している。わたしの仕事納めはまだ先で、仕事始めもそのすぐあとにやってくる。そういう仕事だから仕方ない。年末の夜、仕事を終えて駅に向かうときに目にする「謹賀新年」の張り紙がすきだ。浮き足立っているような気配を感じて。それと、「よいお年を」という挨拶が、人類におけるすべての挨拶のなかでいちばんすき。やわらかくてかわいい。



拍手してくださった方々、ありがとうございます。元気はないですが、生きて生活しています。みなさま、よいお年を!
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