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冷蔵庫にあったたまごのほとんどがゆでたまごになっていた。朝、冷蔵庫を開けて見てみたときは生たまごだったから、今日、祖母が茹でたのだろう。これを、わたしは「楽しいこと」「おもしろいこと」としてとらえられない。それはわたしに余裕がないからに他ならない。もしも金銭的に、時間的に余裕があったのならば、わたしは笑っただろう。お弁当に使おうと思っていたたまごを割ったらゆでたまごだった、と母に笑って話すかもしれない。けれども、わたしには余裕がない。限られたお金で、仕事をしているから限られた時間で、お弁当や食事を用意しなければならない。
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自分が計画していたことが祖母のよくわからない行動で躓いてしまうと、ひどく腹が立ってしまう。けれど、そういうときに深呼吸をして、考える。「たまごを使いたい」はわたしの都合だ。祖母には祖母の都合があるのだ。わたしの都合を祖母がわかるはずがない。もちろんその逆だって同じなのだ。祖母は、たくさんあるたまごを見て「悪くなるから」と思って茹でたのかもしれない。そう考えたら、怒りは少しおさまった。大抵の怒りはそのまま身を任せてしまうと大変なことになってしまう。でも毎回こういう風におさめられているかと言ったら、やっぱり何度かに一回は結構怒ってしまって、あとで凄まじい自己嫌悪に陥っている。はあ。
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結構前に、あさりと鮭(だったかな?)をアクアパッツァ用に買ってきて、「これはわたしが料理するから何もいじらないで」と祖母に言っていたのに、少し目を離したすきに焼き鮭とあさりの味噌汁にされていた、という怒りの記事を書いたことがある。おそらくその記事にも書いていると思うけれど、このときは全然笑えなかったし、とてつもなく腹が立った。自分のしようとしていることを祖母に邪魔されたと感じたからだ。今はどうか。あれから結構な時間が経って、思い出すわたしは笑っている。いやだって、アクアパッツァが味噌汁と焼き魚って。あはは! って感じじゃないですか? ちゃんとオチついちゃってまあ! と思います。でもこれは「時間が経った」から。そのときの感情が風化したから。怒りの感情を思い出すことはできるけれど、そのときの怒りをそのまま再生することはできない。怒っていた自分にはもうなれない。だから、もうわらってしまえる。
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たぶんこのアクアパッツァ事件のとき誰かに「そんなことで怒るなんて!」と言われたとしても、やっぱり怒りはおさまらなかったと思う。うるせえ! と更に怒ったかもしれない。時間はとってもやさしい。ときに残酷だけれど、あらゆるものを風化させてくれるのは、ありがたくもある。平沢進の「パレード」を聴きながら、明日の朝ごはんにもお弁当にもたまごを入れた。真夜中にゆでたまごがパレードをはじめる。流し台から飛び降りて(ゆでたまごだから割れる心配がない!)ねこたちの爪を掻い潜り、力を合わせて玄関を開けて、歩き出す。そんな空想を膨らませながら、自分の中にもう「怒り」なんて微塵もなくなっていることに気がつく。
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